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日本が誇るメジャーリーガー大谷翔平選手を掘り下げる!
長いメジャーリーグベースボールの歴史の中でも、投打にわたって記録に残る好成績を収めた選手はごくわずかしかいません。
日本が誇るメジャーリーガーである大谷翔平選手は、そのような数少ない選手の一人です。
この記事では、今や伝説となったベーブ・ルースとも比較されるほどの活躍を見せている大谷選手のすごさを知ってもらうために、エピソードを交えつつこれまでの成績を紹介していきます。
目次
生い立ち
大谷翔平選手は、1994年7月5日に岩手県奥州市(当時は水沢市)で誕生しました。
父親は社会人野球の元選手、母親は元バトミントン選手というスポーツ一家の中ですくすくと成長していきます。
なお、翔平という名前は、地元の平泉ゆかりの武将である源義経の飛び跳ねながら戦うイメージから想起される「翔」という漢字に、平泉の「平」を組み合わせて父親が名付けたと言われています。
#野球との出会い
大谷選手の野球との出会いは、奥州市立姉体小学校3年生の時です。
地元の水沢リトルリーグで野球を始め、めきめきと頭角を現した大谷選手は、投手として大活躍し、全国大会にも出場しています。
当時から剛速球投手として知られており、何でもその急速の速さは、ボールを受けるキャッチャーが思わず逃げ出してしまうほどだったようです。
その後、奥州市立水沢南中学校に進学し、所属チームも一関リトルシニアに変わりますが、ここでも引き続き非凡な才能を発揮してチームを全国大会に導きます。
#高校球児としての活躍
中学時代の大谷選手が憧れていた野球選手の一人が、同じ岩手県出身で花巻東高校時代に夏の甲子園で準優勝を成し遂げた菊池雄星投手です。中学を卒業した大谷選手は、この菊池選手の後を追って同校に進学することになります。
花巻東高校では、まだ骨格が成長途中であるということを見抜いた監督の方針に従い、高校1年の夏までは野手として起用され、秋口から本格的に投手としての才能を開花させることになります。
高校2年の春には球速が151キロを記録し、同じく東北地方出身のメジャーリーガーであるダルビッシュ有投手にちなんで「みちのくのダルビッシュ」と呼ばれるようになりました。
2011年には2年生エースとして夏の甲子園の切符を勝ち取ったものの、骨端線の損傷により初戦の途中から投手として登板した以外は、すべて右翼主としての出場に留まりました。それでも、登板した試合では、当時としては甲子園の高校2年生最速タイ記録である150キロを出すなど、その活躍はプロのスコアラーをもうならせるものでした。
続く2012年の春の甲子園にも出場しますが、初戦で優勝候補である強豪校と当たり、好投するも惜しくも敗退。
最後のチャンスであった同年の夏の甲子園では、地区予選でアマチュア野球では初となる急速160キロを記録するも、決勝で敗れたため本大会への出場は叶いませんでした。
憧れのプロ野球選手に
高校球児として全国的にその名を知らしめた大谷選手は、2012年のドラフト会議で当然ながら注目の選手の一人に名前を連ねます。しかし、当時の大谷選手の気持ちは、日本のプロ野球とアメリカのメジャーリーグとの間で揺れ動いていました。
当初は、どちらに進むかは五分五分であるとしていましたが、メジャーリーグの数球団との面談を得たうえで、10月にはメジャー挑戦を公言することになります。
その後に行われたドラフト会議では、日本ハムファイターズがドラフト1位として強行指名し物議を醸すことになり、本人もはじめのうちは面談に応じないなど頑なに拒否する姿勢を見せました。
しかし、度重なる球団からの熱意ある説得を受けて最終的には入団を承諾することになりました。入団の決め手になったのは、本人が希望していた投手と野手の二刀流としての育成を球団が受け入れたからであると言われています。
加えて、球団から手渡された「大谷翔平君 夢への道しるべ〜日本スポーツにおける若年期海外進出の考察〜」というタイトルのレポートの内容(高卒でメジャーに挑戦した選手が活躍する確率が低いこと等)も考えを改めるきっかけになったようです。
プロ1年目の2013年は、オープン戦から早速投手と野手の両方で出場しています。開幕戦では右翼手として出場し、いきなり2安打1打点を記録し、その後も出場し続けるも4月中旬に足を捻挫して1か月ほど離脱することになりました。投手としての初登板は5月下旬のことで、勝敗はつかなかったものの157キロという新人離れした球速をたたき出して評判に違わぬ実力を見せつけます。
6月に入って投手として初勝利をあげると、指名打者制が使えない交流戦では投手でありながら5番打者としてクリーンナップの一角を担うなど、ルーキーでありながら主力級の活躍を見せます。
ファン投票でオールスターにも出場したこの年は、結果的に投手として13試合に登板して3勝無敗で防御率4.23、打者としては77試合に出場し打率.238、3本塁打、20打点を記録しました。
続く2014年は、プロ入り初の猛打賞に始まり、初完封、パリーグ史上初の急速160キロと初物尽くしの年になります。
これ以外にも、史上最年少で1試合16奪三振を成し遂げたり、二けた勝利をあげるなど、2年目にして早くも球界を代表する選手の一人へと成長を果たしました。クライマックスシリーズにも出場して初勝利をあげたこの年は、最終的に投手として24試合に登板し、11勝4敗、防御率2.61、打者として86試合に出場し、打率.274、10本塁打、31打点を記録しています。
2015年と2016年には2年連続で開幕投手を務めており、これを見てもエースとしての地位を確固たるものとしたことが分かります。
2015年は投手として15勝、防御率2.24、勝率7割5分という成績を残し、最多勝利、最優秀防御率、最高勝率の投手三冠に輝きます。
一方、野手としては低迷し、打率.202、5本塁打、17打点に終わりました。
2016年は投手として10勝、防御率1.86、勝率7割1分を記録するも、惜しくもタイトルには届きませんでした。その代わりに、前年とはうって変わって打者としても活躍し、打率.322、22本塁打、67打点という好記録を残しています。
プロ5年目となる2017年は、足首に負った怪我の影響で、投手として3勝、野手としても65試合出場、8本塁打という成績に終わりましたが、シーズン終了後に手術を受けて回復の目途が立ったこともあり、11月に入ってポスティングシステムを利用してのメジャーリーグ挑戦を明らかにしました。
数多くのメジャーリーグ球団が大谷選手の獲得を目指してアピール合戦を繰り広げますが、最終的にはアメリカ西海岸の球団に絞ったうえで、残った候補の中からロサンゼルス・エンゼルスを選ぶことになりました。
メジャーリーガーとして
憧れのメジャーリーガーとなった大谷選手は、2018年2月のオープン戦で早くもその高い壁にぶち当たります。
投手と打者の両方で起用されたものの、防御率27.00、打率.125、0本塁打という不振にあえぎ、地元のメディアでは早くもマイナー行きを取りざたされるなど、その先行きが危ぶまれたのですが、結果的には実力で周囲の心配の声を吹き飛ばすことに成功しました。
途中で故障者リストに入るといったアクシデントには見舞われたものの、投手として10試合に先発して4勝、防御率3.31、打者として104試合に出場し、打率.285、22本塁打、61打点、10盗塁を残したのです。
10試合登板、20本塁打、10盗塁を同じシーズンで達成したのは、メジャーリーグの長い歴史の中でも初めてのことでした。
2019年は前年に負った怪我の影響で、初出場は5月にずれ込みます。しかし、遅れを取り戻すかのように、日本人初のサイクルヒットや、2年連続で二桁本塁打を記録するなどの活躍を見せました。
その後は、怪我に悩まされ、9月に入って左ひざの手術を行うことを発表したところで、シーズン終了となりました。この年は、プロ入りして初めて投手としての登板はありませんでしたが、野手としては打率.286、18本塁打、62打点を記録しています。
2020年は、世界中でパンデミックを引き起こした新型コロナウイルス感染症の影響から、シーズンの開幕が7月になるという異例の年でした。この年の大谷選手は、シーズン開幕後に投手として復帰するも2試合を投げて成績を残せませんでした。打者としても打率.190、7本塁打、24打点に終わるなど、メジャー移籍後で最も苦しんだ年になったのです。
2020年のシーズン終了後に年俸調停を回避して、エンゼルスと改めて2年総額850万ドルの契約を結んだ大谷選手は、心機一転して2021年のシーズンに臨むことになります。
2021年は打者として大活躍、シーズン70試合が終了したところで、早くも20本塁打を達成します。その後も、その打棒は衰えることなく、7月にはそれまでの日本人選手の年間本塁打記録を更新する32本目の本塁打を記録しています。
投手としても復調を遂げ、2021年のオールスターゲームに史上初の打者・投手の二刀流で選出されています。
メジャーでもトッププレーヤーとしての地位を確立したと言える大谷選手。
果たしてホームラン王に輝くのか?はたまたそれ以上のインパクトを残すのか?とても楽しみですね。
これからも目が離せない大谷選手の活躍を期待しまSHOW!
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