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オリンピックにおける野球日本代表の歴史を紹介致します!

野球日本代表の活躍はオリンピックでも常に盛り上がりを見せてきました。

日本は過去にロサンゼルス、ソウル、バルセロナ、アトランタ、シドニー、アテネ、北京の7大会において野球の試合に参加しています。
メダル獲得数は金メダル1つ、銀メダル2つ、銅メダル2つとなっており、輝かしい結果を残しています。
ここでは野球日本代表の輝かしい歴史を、詳しく紹介していきます。

目次

正式種目でなかった頃のオリンピック野球日本代表の歴史

ロサンゼルスオリンピックとソウルオリンピックの時の野球は、正式種目ではなく公開競技という形で行われていました。その頃の日本代表の歴史を振り返ってみましょう

#ロサンゼルスオリンピック

ロサンゼルスオリンピックは1984年に開催されました。このオリンピックはソ連がボイコットした大会でした。
それに伴い、アマチュア野球で最強と言われていたキューバもボイコットをして出場しませんでした。
そのため代表決定戦で負けて出場できないはずだった日本代表が、繰り上げという形で急遽出場できることになったのです。
この時の日本代表メンバーは、社会人13人と大学生7人の合計20人でした。

後に20人中16人がプロ入りをした事を考えると、大変豪華なメンバーでした。
予選リーグで日本は韓国、ニカラグア、カナダと対戦し、韓国とは2対0、ニカラグアとは19対1で勝ちました。
残念ながらカナダには4対6で負けてしまいましたが、2勝1敗で決勝トーナメントに進むことはできたのです。
準決勝はチャイニーズタイペイと対戦し、延長戦にもつれ込むほどの接戦が繰り広げられました。
延長10回で後にヤクルトに入団する荒井幸雄選手のサヨナラ打が放たれ、日本は2対1で見事に勝利したのです。

決勝は開催国であるアメリカとの対戦であり、日本は完全にアウェーの状態で試合に臨みました。
3回裏でアメリカに先制されましたが、4回表ですぐに日本が逆転した場面は、当時大いに盛り上がったことが容易に想像できます。
その後8回に広澤克巳選手がスリーランホームランを放つと、日本はそのままリードを守り切り、アメリカに6対3で勝って金メダルを獲得しました。
これはオリンピックの野球に日本が参加した7大会の中で、唯一獲得した金メダルでもあります。

#ソウルオリンピック

ロサンゼルスの次には、1988年にソウルオリンピックが開催されました。
この時の日本代表メンバーは、社会人17人、大学生3人で構成されており、13人がその後プロ入りしています。その中には野茂英雄選手や古田敦也選手といった、野球好きでない方でも知っているような有名選手もいました。
予選リーグはプエルトリコ、チャイニーズタイペイ、オランダとの対戦でした。
戦績は7対1、4対3、6対3、つまり全てに勝利を納めて決勝トーナメントに進んだのです。

準決勝は開催国韓国との対戦でアウェーでしたが、3対1で日本が勝ちました。
この試合では、先発に石井丈裕選手、中継ぎに潮崎哲也選手、そして締めには野茂英雄選手という素晴らしいリレーが見られたのです。
決勝の対戦相手は、前回大会と同じくアメリカでした。先制したのは日本で、2回に1点を獲得しています。しかし4回にアメリカに逆転されてしまい、日本の反撃も上手くいかず結局3対5でアメリカに負けて銀メダルという結果になりました。
この決勝戦では、アメリカのピッチャージム・アボット選手が見事完投をしたのです。

正式種目となったオリンピック野球日本代表の歴史

バルセロナオリンピックからは野球が正式種目となりました。ここではバルセロナ、アトランタ、シドニーのオリンピック野球における日本代表の歴史を紹介します。

#バルセロナオリンピック

1992年に開催されたバルセロナオリンピックで、ついに野球は正式種目となりました。
この時の日本代表メンバーは、社会人19人と大学生1人でした。後にプロ入りしたのは8人と、ロサンゼルスやソウル大会の時よりも少なめです。
しかしその後日本代表監督となった小久保裕紀選手がいたのは注目ポイントです。
また、ロサンゼルスとソウルの時は2組に分かれていた予選リーグを、この大会では参加した8ヵ国が総当たりする形で行うことになりました。

日本はプエルトリコ、スペイン、ドミニカ共和国、イタリア、アメリカにそれぞれ9対0、12対1、17対0、13対3、7対1で勝っています。
しかし、キューバには2対8、チャイニーズタイペイには0対2で負けてしまい、予選は5勝2敗となりました。
この結果日本は2位で予選を通過し、決勝トーナメントに駒を進めたのです。
予選リーグでは、投手の活躍が目立ちました。まずはドミニカ共和国とチャイニーズタイペイ、アメリカの試合に登板した杉浦正則選手です。

彼はプロ入りよりもオリンピックを重視していたほどの選手で、上記3試合を無失点で抑えました。
小桧山雅仁選手は、プエルトリコ戦を見事完封勝利しています。
調子の良かった日本の準決勝の対戦相手は、予選で負けたチャイニーズタイペイでした。
先発投手は小桧山選手でしたが、先頭打者にホームランを放たれてしまいます。
その後一旦は2対1に逆転しましたが、またもや2本のホームランを打たれ、結局2対5で日本は負けてしまいました。

3位決定戦の相手はアメリカで、この試合では2回と4回にそれぞれ4点獲得するほど日本の打線が好調でした。
結果は8対3で日本の勝利となり、銅メダルを獲得しました。3位決定戦の打線で最も活躍したのは、小久保選手でしょう。
4打数2安打2打点という結果を残しています。
また、この大会で投手として伊藤智仁選手も27奪三振という素晴らしい記録を打ち立てました。これは、ギネス世界記録にもなったほどの大記録です。

#アトランタオリンピック

1996年に開催されたアトランタオリンピックの日本代表メンバーは、社会人16人と大学生4人でした。
その後プロ入りしたのは10人で、特に強打者が多いのは注目ポイントでしょう。予選リーグは前回大会のバルセロナの時と同じように、総当たりで行われました。
初戦のオランダに12対2でコールド勝ちし順調に見えた日本ですが、この後大苦戦。
キューバ戦では延長戦にもつれ込みましたが、10回に7対8の逆転サヨナラ負けの結果で終わりました。

その後オーストラリアには6対9で負け、アメリカには何と7回に5対15でコールド負けしてしまいます。
3連敗で苦しい状況となった日本ですが、ニカラグア、韓国、イタリアには勝ち、4勝3敗で予選リーグをなんとか3位で通過しました。
準決勝の相手は、4大会連続で対戦しているアメリカでした。この試合では予選リーグで大敗したとは思えないほど、日本が活躍したのです。
今岡誠選手と松中信彦選手、井口資仁選手が、合計5本のホームランを放ちました。

投手の杉浦正則選手と川村丈夫選手も好調なピッチングを見せ、リードを守りきり11対2でアメリカに見事に勝つことができました。
決勝は予選を全勝したキューバとの対戦です。2回までに6点をとられて日本は苦しい状況となりましたが、5回には松中選手が満塁ホームランを打って6対6の同点に追い付きました。しかし最終的には9対13で負け、日本は銀メダルの獲得となりました。

#シドニーオリンピック

2000年に開催されたシドニーオリンピックでは、これまで認められていなかったプロ選手の参加が可能になったのが大きな変更点です。
日本はパ・リーグの各球団から1人ずつと、セ・リーグから2人の合計8人のプロが代表入りしました。さらに社会人11人、大学生5人を加えた合計24人の代表メンバーでした。
この大会は予選で苦戦してしまいます。アメリカとの試合で、延長13回に2対4のサヨナラ負けという結果からのスタートとなりました。
2戦目のオランダには10対2で勝ち、その後もオーストラリア7対3、イタリア6対1、南アフリカ共和国8対0と4連勝となります。

しかし、その後調子を崩してしまいます。韓国に6対7、キューバには2対6で負けという結果に。
それでも日本は、4勝3敗でなんとか決勝トーナメント進出となったのです。準決勝はキューバとの対戦で、先発投手はエースの黒木知宏選手でしたが0対3の完封負けとなりました。
韓国との3位決定戦での先発投手は松坂大輔選手で、7回までどちらも無得点という緊張感のある試合でした。しかしついに8回に3失点し、結果1対3で日本は敗戦。
この大会で日本は、オリンピックで初めてメダルを逃しました。

全員プロ選手で臨んだオリンピック野球日本代表の歴史

アテネオリンピックから、日本は全員プロ選手で代表メンバーを構成しています。ここではアテネオリンピックと北京オリンピックの、日本代表メンバーの歴史を見ていきましょう。

#アテネオリンピック

2004年のアテネオリンピックで日本は金メダル獲得を目標に掲げ、代表メンバーを全員プロ選手から選出するという気合いの入りようでした。
予選リーグではイタリア12対0、オランダ8対0、キューバ6対3と3連勝しました。途中オーストラリアに4対9で負けますが、カナダ、チャイニーズタイペイ、ギリシャに勝ち、6勝1敗という見事な結果で予選を1位通過したのです。
準決勝はオーストラリアとの対戦で、相手の投手陣に日本の打線は抑え込まれます。

松坂大輔選手が良いピッチングを見せましたが、結局0対1で負けてしまいました。
うってかわってカナダとの3位決定戦では、日本の打線が好調となります。早くも1回に先制し、その後も順調に加点していき11対2の大勝利を納め、銅メダルを獲得しました。
この大会は本来の監督であった長嶋茂雄監督が、途中で病に倒れるという出来事があったのです。そのような万全でない状況で獲得した銅メダルは、非常に価値のあるものと言えるでしょう。

#北京オリンピック

2008年に開催された北京オリンピックでも、日本は全員プロ選手という代表メンバーで臨みました。
星野仙一監督や田中将大選手、ダルビッシュ有選手など有名な名前が連なっています。予選リーグの初戦キューバ戦は先発投手がダルビッシュ選手でしたが、2対4で敗れました。
その後チャイニーズタイペイに6対1、オランダに6対0で連勝しますが、韓国との対戦は3対5でまたもや負けてしまいます。
立て直してカナダと中国に勝ち、最後アメリカには負けたものの、4勝3敗で決勝トーナメントに進出できました

準決勝の韓国戦では1回と3回に1点ずつ獲得し、日本は好調のように見えましたが、その後に思わぬ出来事が待ち受けていました。同点という大事な場面であった8回に、2点を取られてさらに2死一塁の状況で、フライをG.G.佐藤選手が落球してしまったのです。
ここで4点を失い、最終的に2対6で日本は韓国に敗戦。3位決定戦であるアメリカとの対戦は、荒木雅博選手と青木宣親選手のホームランのおかげで、3回表には4対1でリードしていました。しかし3回裏で、またもや佐藤選手がフライを落球します。
結局4対8で日本は敗れ、北京、常に素晴らしい試合を見せてくれました。実際に見た試合があった方は、感動が蘇ってきたのではないでしょうか?

しかし、野球は2012年のロンドン2度目のメダルなしのオリンピックとなりました。

素晴らしい試合が多いオリンピックの野球

日本代表はオリンピック野球リンピックの正式種目から外されてしまいます。
紆余曲折を経て2021年の東京オリンピックでは追加種目として実施されますが、2024年パリ大会では再び正式種目からは除外となります。
金メダル獲得が至上命題の東京大会はオールプロで臨みます。金メダルを目指して日本代表が活躍するのを楽しみにしましょう!

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